名前で呼びかけること
私の仕事は、いわゆる対人援助職だ。
仕事上、「〇〇さーん」と呼びかける事も少なくない。関係性にもよるけれど、一歩踏み込みたい時は、苗字ではなく名前で呼ぶ。
馴れ馴れしく思われることもあるだろうし、それが正解だとは思わないけれど、その人を役割から解放できる魔法の言葉だとは思っている。魔法は万能じゃないけれど薬になるのだ。
人間は大なり小なりコミュニティに属する生き物だし、役割で呼ばれることもある。「お母さん」「お父さん」「先生」「社長!」とか。
役割を否定しているわけではない。でも、たまに役割を真面目に遂行しようとしすぎて、ボロボロになってしまう人がいる。そんな時、苗字ではなく名前で呼ぶ。すると、ハッとした顔になって悩みを打ち明けてくれることがある。もちろん、名前で呼ばれる事にびっくりしたという人もいるだろうけど、一歩垣根を越える瞬間でもある。
話は変わるけど、祖母は地域コミュニティの仲間が多く、下の名前で呼ばれていることが多い。田舎は同じ苗字が多いのも理由だとも思う。でも、それとは別に、歳を取ると名前で呼ばれることが少なくなるという話を聞いて、自分が関わる人の名前を呼ぶ機会を作れたらなとしみじみ思った。
暴力性を前面に出した作品に、救われる話
最近、龍が如くの実況動画を流している。内容が内容だけに勧善懲悪ではない。それに何よりファンタジーだ。でも凄く癒される。
サスペンスやゾンビ映画も好きだ。誰かを襲う、殴られる、殺される…暴力性を孕んでいる事は明確だ。
自分みたいな人間(気にしい・感受性豊か・攻撃を受けた時にフリーズしてしまう…などの生きづらさを持つ)な人間にとって、終わりのある暴力はなんて救われるんだろうと思う。なぜなら、生きる事そのものが暴力に晒されることだから。
自分の持つトラウマを、画面の向こうで誰かが抵抗したり、傷ついたり、闘ってくれたりするから救われるのだ。ファンタジーの中だろうと、追体験する事で、トラウマを上書きしたり意味を持たせることができる。
自分の傷つきは自分だけのものじゃなかったんだ、そう思わせてくれる作品が、代わりにナラティブを行ってくれる。そんな時、自分の人生が少しだけきらりと光る瞬間がある。
追記
春日一番はかわいい。そう思う自分は大人になったんだな…。
曇り空 ※皮膚むしりの自傷行為の記載があります
ここ最近曇り空ばかりで、わたしの意識もどんよりしている。眠すぎてふわふわしていて、輪郭がとろける感覚がある。
先日のカウンセリングで、スキンピッキング(痒みを伴うわけではないのに皮膚をむしってしまうこと)を行う時は、微睡んでいるときなんだなと発見した。眠くて意識がふわっとしていることに不安を感じるのだ。スキンピッキング、血が出るまで皮膚や爪をむしってしまうので目が覚める。でもそれがスッキリしていて心地よい。
意識がふわっとしている時は、嫌な映像が流れ込みやすいから怖いんだと思う。それを気づけて良かった。
痛みより爽快感が勝ってしまうけれど、それを学習したくはないなと思う。今は氷枕や冷却シートを代わりに使って、スキンピッキングの代用をしている。
ふと何かの作品の拷問シーンで、「爪は枚数が限られているから、それまでに吐くといいな」って怖い台詞を思い出した。思い出す余裕があるんだかないんだか分からないが、確かに自傷行為としての爪むしりも毎日やってたら枚数が足りなくなっちゃうなと妙に納得した。
とりざらとりばし
タイトルは呪文ではなくて、飲食の際に使用する「取り皿・取り箸」である。
例の感染症の流行により、取り皿取り箸文化が根付いてきたのはありがたいなあと思う。取り皿はまだしも、取り箸はお店の人にお願いするのが忍びなかった。もちろん感染症なんか蔓延してほしくなかったし終息してほしいけど。わたしは疲労してくると口唇ヘルペスがじゅくじゅくと疼いてしまい、誰かと飲食する際に説明するのが結構辛かったのだ。正確には現状を説明して「大丈夫だよー」って言われるのが一番辛い。神経質と言われることもあって、心が折れてしまうこともあった。いや、百歩譲ってわたしはええねんけどな!?(よくない)
感染症の対策は文化や価値観の衝突だなあと思ってしまう。病院に勤務していたときは、答えは明確でゾーニングだってやりやすかった。こちらが主導で感染症対策を行えるわけだ。日常生活の対策はそうはいかない。様々な立場や環境に置かれている人々がそれぞれの大切なものと天秤にかけないといけない。ずっと我慢し続けるの辛いよねと思う。自分は資格を取って働いている以上、ある意味呪いみたいなものだから仕方ないと思っているところはあるけれど、前の生活に戻りたいと思わないと言ったら嘘になる。病気の関係で人との交流を忌避してしまうから新しい生活様式のメリットが合致したところもある。
話は戻って。
個人経営の飲食店でアルバイトしていたこともあって、客の立場といえど洗い物はなるべく増やしたくないなあと思うけれど、取り皿取り箸文化は残ってくれないかなと思ってしまうのだ。それが言いたかっただけ。小心者のわたしより。
こころの視野狭窄(自死について個人的に思うこと)
タイトルは自殺予防医療者向けの本に書いてあった言葉だった。患者としても医療従事者としても納得する言葉だ。
自殺の選択肢を認めるべきと話している医療従事者もいたが、既遂し残された周囲がサバイバーズギルドに向き合う過程の言葉ならともかく、医療従事者がそれを言っちゃいけないだろうと思う。
自殺企図を起こしたことがある患者としては、それこそ心の視野狭窄としか言いようがない。精神疾患の診断は10年以上前だが、それ以前から希死念慮はあった。自分の生きてきた環境が異なっていたら、それこそ希死念慮は抱かなかったかもしれないと思っている。今は希死念慮と共に生きているが、心身の調子やストレスによって、その波は大きく変わっている。
未遂したことは何回かあって、回を追うごとに(?)手段は死に近づいていたと思う。自殺未遂は既遂の最大のリスク因子だし、今後どうなるかは分からない。でも「わたしってもしかして鬱じゃないかも!」と思える時期は確かにあった。性被害を受けるまでは数年間薬も飲まずに生きてこれた。
個人的に、外国のように安楽死としての自殺を選択できる制度があるならば、尊厳はまだ保たれている気がする。日本ではそのような制度もないし、自殺の手段は苦しいものばかりだ。当たり前だけど。その苦しい手段を選択してまで、現実の苦しみを手放したいということをわかってほしい。そんな中で、医療従事者が「自殺の選択肢」なんて言わないでほしい。心の視野狭窄に陥った当事者ならまだしも。
生きることはキラキラしてることだけじゃなくて泥臭く苦しいことも起こりうる。人間1人では抱えきれない事が一気に押し寄せることもある。楽しみや安らぎが少しずつ続いて、気づいたら生き延びてたわって思える日がいつか来れたらいいねと思っている。当事者同士に向けた、祈りのような願い。
追記)個人的に、薬物で自殺を図った人が錠剤の数を表沙汰にするのも厳しいなと思っている。背景には、試し行動としての自殺企図という偏見があると思うけれど。自殺未遂を起こした医療従事者の方が書いた本で、錠剤の数まで書いていて引いてしまった事がある。本ならば編集を介しているわけで、それをやっちゃいけないでしょう。遠回しの自殺幇助にしかならない。本人がパニックになった直後ならともかく、数字のインパクトのために記載しないでほしい。
へろへろ
吐き気で目が覚めることは珍しいことじゃない。
夕ご飯は食べなかったので、昼に食べたアレが原因かとか色々思いつつ。
ここ最近大勢の人と一緒にいたので、1人の生活とのギャップに改めて噛み締めている。具合が悪くて外部と遮断するのは、1人だと簡単だ。それの心地よさと寂しさと。
そうは言っても、今日は怒涛のスケジュールだったので、寂しさを感じることが多くなかった。明日以降は一層孤独を感じるんだろうな。
社会復帰に向けて、一歩一歩踏み出していく毎日だ。後ろに下がることもたくさんあるけどね。
まずはこの吐き気が治らないかなあって思いながら横になってこの文章を書いているよ。