こころの視野狭窄(自死について個人的に思うこと)

タイトルは自殺予防医療者向けの本に書いてあった言葉だった。患者としても医療従事者としても納得する言葉だ。

 

自殺の選択肢を認めるべきと話している医療従事者もいたが、既遂し残された周囲がサバイバーズギルドに向き合う過程の言葉ならともかく、医療従事者がそれを言っちゃいけないだろうと思う。

 

自殺企図を起こしたことがある患者としては、それこそ心の視野狭窄としか言いようがない。精神疾患の診断は10年以上前だが、それ以前から希死念慮はあった。自分の生きてきた環境が異なっていたら、それこそ希死念慮は抱かなかったかもしれないと思っている。今は希死念慮と共に生きているが、心身の調子やストレスによって、その波は大きく変わっている。

 

未遂したことは何回かあって、回を追うごとに(?)手段は死に近づいていたと思う。自殺未遂は既遂の最大のリスク因子だし、今後どうなるかは分からない。でも「わたしってもしかして鬱じゃないかも!」と思える時期は確かにあった。性被害を受けるまでは数年間薬も飲まずに生きてこれた。

 

個人的に、外国のように安楽死としての自殺を選択できる制度があるならば、尊厳はまだ保たれている気がする。日本ではそのような制度もないし、自殺の手段は苦しいものばかりだ。当たり前だけど。その苦しい手段を選択してまで、現実の苦しみを手放したいということをわかってほしい。そんな中で、医療従事者が「自殺の選択肢」なんて言わないでほしい。心の視野狭窄に陥った当事者ならまだしも。

 

生きることはキラキラしてることだけじゃなくて泥臭く苦しいことも起こりうる。人間1人では抱えきれない事が一気に押し寄せることもある。楽しみや安らぎが少しずつ続いて、気づいたら生き延びてたわって思える日がいつか来れたらいいねと思っている。当事者同士に向けた、祈りのような願い。

 

 

追記)個人的に、薬物で自殺を図った人が錠剤の数を表沙汰にするのも厳しいなと思っている。背景には、試し行動としての自殺企図という偏見があると思うけれど。自殺未遂を起こした医療従事者の方が書いた本で、錠剤の数まで書いていて引いてしまった事がある。本ならば編集を介しているわけで、それをやっちゃいけないでしょう。遠回しの自殺幇助にしかならない。本人がパニックになった直後ならともかく、数字のインパクトのために記載しないでほしい。